第9話 ふじわら の よりみち

この楽しみは恐らく大学生になってから始まったのだが、
深夜に家まで歩いて帰るのが非常に面白い。

「徘徊する」という点で見れば、
高校時代には既に2時間以上遠回りをして帰る
なんて事は度々あった。

では、「歩く」ようになったのはいつからだろうと考えると、
大学2年生の時のとある事件が関係していると思う。
僕は「終電で寝過ごしてしまった」のだ。



今でも鮮明に覚えている。
あれはバイト先がめちゃくちゃ忙しかった上に、
前日はほぼ徹夜状態だった。

疲れからか、2駅先で降りるはずなのに、
座ってしまった」のだ。

まあ実を言うと降りる駅から4駅先ぐらいまでなら
普通に歩いていけるぐらいの距離だったので、
そう言う油断は確かにあったとは思う。

しかし!起きた時には時すでに遅し!
電車は山を越え、お隣の「亀岡市」にいたのだ…
折り返しの電車は既にない。

そこで僕が出した答えは

とりあえず歩くか~!w

バカである。

そう心に決めて、僕は家まで「凡そ20km」もの道のりを
我が足で進んだのだった…



とまぁこのような感じで僕の夜間ウォーキングライフが始まった。
それ以降、20歳になってお酒を飲み始めても、
まあ20km歩いたことあるし笑」ぐらいの超軽い気持ちで
「終電」を逃し、家まで歩くと言う状況を自らつくることも多くなった。


夜間ウォーキングの面白さは
時間や人の目を気にしなくていい
ところにあると思う。

気にしなくていいとは言ってももちろん限度はあるが、
ゴールまでの道は「自分の自由」なのだ。
その上人通りも少ないから、
まるで「自分が支配してしまった」かのように錯覚出来る。

ここに僕なりの夜間ウォーキングのルールがあるのだが、
敢えて大通りは通らない
のである。
というのも、歩き慣れてしまって、言ってみれば「つまらない」のだ。

そういう意味では、京都では「碁盤の目から外れたところ」は最高に面白い。
あ、ここに続くのか!
こんなところにあったのか!
新たな発見がかなり多く、兎にも角にも新鮮なのである。

それが寄り道になることも多いが、何ら問題ない。
僕はこの「寄り道しようという感覚」自体が面白さを生み出すと思うからだ。
(とはいえ、し過ぎてゴールにつかないのはそれはそれで問題だが。)


この感覚は人生の中でも必要なのかなと最近思う。
特に僕はゴールまで一直線である必要がある、あってほしいと思いがちで、
そのくせに、ルートを見つけられず、断念する事が多い。

そもそもゴールを見つけられていない可能性は当然あると思うが、今は置いといて、
「僕の人生、寄り道してもいいじゃない」と許してあげようと、
僕の楽しみを改めて振り返って思った。