第59話 京都の29時が過ぎてゆく

ふとした拍子に僕は自身の置かれている現実を直視しようと試みるのです。

でも今のところ、全敗中です。見ようとすればするほど辛くなっちゃう。

本来はそういうものでありながらも、辛いのは嫌だから、逃避しちゃう。

そして、どんどん現実に敵わなくなってしまうのです。

 

「理想の自分を描くと良いよ!」だなんて言われることがありますが、

僕の理想が高すぎるのか、今の僕とその理想がかけ離れていて、

今から頑張ったとて、その溝が埋められない気しかしなくて、

ああ、もう手遅れだ。そのように感じることが常になりました。

 

早くから直視して行動しておけばよかったのにね。

後悔先に立たずとはまさにこのことです。

でもいつも行動できないんですよね。

何故って?面倒くさいからですよ。

 

 

僕ははっきり言って自分の将来にあまり興味はありません。

明日、仮に目覚めなくても別にそれはそれでいいのです。

だから、朝起きたというだけの理由で毎日を過ごす結果になっています。

まあこれも正直なところ、将来を考えるのが面倒くさいだけなんでしょうね。

 

ここまでの人生から帰納的に明日も生きていそうな気がするので、

じゃあ生きているのであれば、ある程度自身の理想に近い状態でありたいと、

僕は欲張ってしまうのです。過去の人生を直視しようとしないのです。

特に「稼ぐ能力」的なところで欲張ってしまいがちです。

 

稼いだところで、何かに使いたいという欲があるわけではないのですが、

上を見てしまって、そのラインに近づきたいという欲があるようなのです。

かと言って明確なラインがあるわけじゃないんですけども。

現実ではどれくらいが相場なのかを知っているわけでもないんですけども。

 

 

そこで「自身の能力」という現実を見た時に、

どう考えてもそのラインに立てるほどの能力がないことに気づいてしまいました。

かと言って能力を向上させたり、新たに能力を得ようとしたりしない自分がいて。

だからこそもう「手遅れ」だって思ってしまうのです。

 

僕が面倒くさがりでなければ、その先には薔薇色の人生が待っていたのでしょうか?

面倒くさがりという性格はもうどうすることもできないのでしょうか?

でも仮に今この厄介な性格をどうにかすることができれば、

もしかしたら薔薇色のルートに進めるのじゃないか。そんな淡い期待もあります。

 

人生を舐めすぎだとは分かっているものの、

薔薇色の人生を送るには、もはや外部的要因に頼るしかない気がしています。

もう少し「死」を強く認識する事案に遭遇するか、

「面倒くさがり」でなくなる薬にであうかなど。

 

いっそのことこんな淡い期待なんて無くなってしまえばいい。

そう思うこともありますが、自分ではどうしようもできないので、

この淡い期待に縋らざるを得ないのも事実です。

どちらにせよ、その後のことを考えるだなんて面倒臭すぎますが。

 

僕はどうすればいいんでしょうか。

 

 

僕の舐め腐った思考をぶつけてみました。

朝からバイトがあるのに、どうも眠れず。

答えの分かりきっている問の答えを無理やりねじ込んでいたら、

京都の29時は過ぎていきましたとさ。