第1話 何とは言わんものを卒業するか否か

140字という制限は,時に枷となる。
いつもなら十分すぎるのに,どう試行錯誤しても文章は縮まりそうにない。

複数にまたがらせようか? いや,ただ見づらいだけだ。
顔本にでも書いてみるか? それほど大それた内容でもない。

そんな時,突然のブログラッシュ。
波に乗るしかないと意を決して,ブログを始めてみました。
これで私も「ブログ『何とは言わんもの』」を卒業した事になります。
過去の黒歴史には目を背けつつ



前置きはここまで。
今回の話題はその『何とは言わんもの』について考えようと思います。
そのきっかけは某白い鳥文庫のとある1つの物語でした…




昔々,あるところに一人の女性がいました。

ある日,彼女はA君とお酒を飲みに行きました。
お酒を飲みすぎた彼女はA君にアピールを繰り返しました。

しかし『何とは言わんもの』のA君は
「酔っぱらっているから」 
という理由で,その人に好意をよせているにもかかわらず,何の行為もせず,家に送ってあげました。


その2週間後,その女性は 『何とは言わんもの』 を当の昔に卒業したB君と出会いました。
二人は素敵な一夜を過ごし,幸せにくらしましたとさ。

A君はとてもいい人ですね!
めでたしめでたし





私は最初,この物語に強く感動させられました。
私も『何とは言わんもの』のA君と同じ立場にいたからです。

しかし,この物語に対する感想を見てまわればA君は「いくじなし」と言われてばかり。
そうでない意見もあるにせよ,私は悲しくなりました。

さて,A君はどうすればよかったのでしょう?
やはり「何の行為もしなかった」のがダメだったのでしょうか?
それが『何とは言わんもの』たらしめる理由なのでしょうか?

ここで注目したいのは,
「アピールをしてきた彼女はお酒で酔っぱらっていた」
ことでしょう。
これを「1つのチャンスととらえるか否か」で『何とは言わんもの』かどうかが変わっていそうです。
(なお私はその物語の中の住人ではないので,「アピール」がどれほどのものだったのかは分かりませんが,その「アピール」が必ずしもGOサインとは限らないのは事実です。)


『何とは言わんもの』のA君は何とは言わん行為の経験がないとは言っても,
それが青信号なのか赤信号なのかはある程度わかるとしましょう。
しかしA君は何とは言わん行為には及びませんでした。

私はこう考えます。お酒に酔った上でのアピール黄信号なのではないかと。
「その黄信号を渡るか渡らないか」が違いを生み出してしまったのだと。

青信号なのか赤信号なのかは分かるとはいえ,
黄信号がどちらに属しうるかはその時の状況によりましょう。
その状況に遭遇したことがなければ,渡らないほうが賢明だと私は考えます。
だからA君は渡らなかった。それだけの話です。
B君は何度も渡っていた。それ以外のなんでもありません。


とはいえ,A君が「どんなときでも青信号であれば渡るか?」はまた別の話です。
答えはおそらく「渡らない」でしょう。

青信号であっても,信号無視をして突撃してくる輩がいるかもしれない。
青信号それ自体が見間違いかもしれない。

これが『何とは言わんもの』を図らずも死守してしまっている人の心なのではないかと,私は考えます。
(まぁ,この世にはお金を出しさえすれば,通りに「歩道橋」を立てるシステムが存在するので,
渡りたいだけならこのシステムを活用すればいいでしょう。)


そんな人でも青信号を渡りたいなら,誘導員さんに誘導してもらえれば一番なのでしょうが,
誘導員さんのいない信号を渡る必要もあるでしょう。その時に何が必要なのでしょうか?

ある人はこう言います。必要なのは「勇気」だと。「自信」だと。
それはそうです。それはA君も知ってます。それがあれば黄信号渡るでしょう。
知りたいのは「その必要なものを入手するには何が必要なのか」です。

そもそも信号を渡ろうといてるのに未だ家にいるような人は例外として,
本当は渡っても大丈夫なはずなのに,でも一歩を踏み出せない人はどうすればいいのでしょうか?

生憎,私の周りには信号機どころか通りすら見当たりませんが,
残念ながら,一歩を踏み出せない人はあきらめるしかないのかもしれません。
今や数の少ない「誘導員さんのいる横断歩道」を見つける必要があるのかもしれません。
慣れていない人が『何とは言わんもの』を卒業することはそういうことなのかもしれません。


物語の最後は「A君がいい人だ」という結末を迎えています。
あの時勇気を出してさえいれば,自信さえ持っていれば,
結果としてB君のように幸せに暮らせていたかもしれません。
そうしなかったために,A君は律儀にも黄信号も渡らずに待つ人」となってしまいました。


そう考えてしまえば,あの昔話は「あと一歩を踏み出せない人」に対して皮肉をこめていたのでしょう。